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武士の価値観・精神性とは?

儒教を取り入れた治者の倫理

江戸時代のサムライ

江戸時代の武士

多くの日本人にとって、武士は単なる野蛮な戦士ではなく、倫理的・道徳的な存在としても見ているのではないかと思います。これは、江戸幕府が十七世紀後半から文治政治に転換し、徳川の平和(Pax Tokugawa)が実現した影響によるものです。

戦国期以前は、武士の生き様は「ツワモノの道」、「弓矢取る身の習い」などという表現が使われ、死への覚悟が武士の自己鍛錬の中で大きな比重を占めていました。それが、江戸期に入ると、武士はそれぞれが徳川政権における役割を与えられ、個々の軍事集団としての機能は凍結されました。その上で、戦士としての気風・心がけを守ると同時に、人心を引きつける指導者としての道徳心を身に着けることが必要とされました。

江戸幕府は、ほんらい「武」の対立物である「儒教」を武士の治者としての自覚をうながす教養体系として取り入れます。儒教から言葉や考え方を借りてくることによって、為政者として自分を厳しく律し、心がけや振る舞いを正すよう指導しました。

兵学者であり儒者である山鹿素行(やまがそこう)は、1663年に成立した『山鹿語類』で、武士に対して「日々の一挙手一投足にいたるまで、作法に適った立ち振る舞いを行い、手本を見せるべき」だと諭しています。また、山鹿素行の弟子である大道寺友山(だいどうじゆうざん)は、『武道初心集』(1716〜36年成立)で、「武士たるもの、元日の朝から大晦日の夜に至るまで日々夜々、常時死を心がけるをもって本望であり、忠、義、勇の三つを兼ね備えたものが最高の武士だ」と説いています。

ことわざに見る理想の武士像

こうした武士の考え方や立ち振る舞いの有り様は、江戸時代の庶民が楽しんだ歌舞伎や浄瑠璃、文楽の作品中にも登場し、いくつかは俚諺(りげん)(ことわざ)にもなっています。

「武士に二言なし」
「武士は情を知る」
「武士は食わねど高楊枝」


これらは、庶民の間で共有されてきた武士像であり、「かくあるべし」と期待する姿だともいえます。全ての武士がこのように素晴らしい徳を 備えた人々だったということではいでしょうし、実際には大きく隔たなりがあることでしょう。ただ重要なのは、この「あるべき姿」が庶民に共有され、庶民からそのように振る舞うことが期待されていたことが、武士自身、自らの身を律することに繋がっていたのではないかと思います。そして、剣舞を含む多くの芸能作品に武士の「あるべき姿」が示され、芸能を通して、今も国内外の人々に発信され続けているのです。

『Bushido ̶ the soul of Japan』

新渡戸稲造著『Bushido ̶ The Soul of Japan』(武士道)

新渡戸稲造著『Bushido ̶ The Soul of Japan』(武士道)
“Hearn 92.40.10, Houghton Library, Harvard University”

ところで、武士はいつからこれほど世界的に知られるようになったのでしょうか。武士が特に倫理的な存在として広く知られることになった一つのきっかけに、新渡戸稲造著『Bushido ̶ The Soul of Japan』(武士道)があります。明治33年に英語で著された同著は、数年のうちにドイツ語、ポーランド語、フランス語、ノルウェー語、ハンガリー語、ロシア語、イタリア語に翻訳され、世界的なベストセラーになりました。教育者として幅広く活躍し、国際連盟事務次長も務めた新渡戸は大変尊敬に値する人で、『Bushido』は侍に興味を持つ多くの人が一度は読んでいるだろう点で古典だといえます。まだ読んだことがない方は、ぜ ひ手に取ってみてほしいと思います。

ただ、「武士道」という言葉が江戸期以前に普及した用語だったかといえばそうではなく、歴史学者の間では、『Bushido』の評価はそれほど高 いとはいえません。『Bushido』があくまで、明治の半ばを過ぎてから、歴史専門家ではない人物が著したものであることには気をつけておきま しょう。

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